田中優子氏
講師紹介
田中 優子氏
法政大学社会学部・メディア社会学科教授。専門は日本近世文化・アジア比較文化。1952年横浜生まれ。1974年法政大学文学部卒業。1986年度北京大学交換研究員。1993年度オックスフォード大学在外研究員。2003年より現職。国立国際日本文化研究センター運営協議委員、文部科学省文化審議会委員、文部科学省学術審議会委員のほか役職多数。江戸に関する著作も多い。


1.はじめに
江戸時代の人々の暮らしぶりがどのようなものだったのか、一般的にはあまり知られてはいない。じつは、江戸時代の人々の生活はどのように環境と調和していたのか、今も研究がなされている分野である。それはなぜか。日本は、明治時代に入り近代国家をつくるために江戸時代全てを否定しなくてはならなかったからである。戦後になってようやく、江戸時代そのものの研究に着手されるようになった。江戸時代と明治以降の近代化の遷移は、まさに我々人間の価値観の問題でもある。



2.上水道とごみ処理システムの整備

せき口上水端芭蕉庵椿山

歌川広重が幕末に描いた「名所江戸百景」に「せき口上水端芭蕉庵椿山」という絵がある。
「せき口上水(神田上水・関口)」は、現在、目白の椿山荘の真下にあたる神田川の堰である。ここには現在でも芭蕉庵がある。どうしてここに芭蕉庵があるのかというと、1677年、神田上水の浚渫工事の請負人を、松尾芭蕉が初めて行ったのである。1679年には町名主の願い出によって、町年寄りが浚渫の請負を認可し、1680年ごろまで松尾芭蕉が請負人を勤めた。芭蕉は請負人として数百人の人足を動かした。現在、芭蕉は文学者として著名であるが、当時はむしろ組織コーデイネーターとして活躍していたのである。

神田上水は、井の頭を水源とし、関口から小石川までが暗渠であった。浚渫工事は年に一度行われていた。この水は、長屋に渡っていて、長屋には共同の井戸があり、人々が利用していた。
井戸の向こうには掃き溜めがある。現在のゴミ箱である。江戸初期の頃、ごみは川に捨てていたが、川底が上がってしまい、当時の川は、運搬用路として使われていたので、川底が上がってしまうと船が通れなくなってしまう。したがって、ごみを川に投棄することを禁止し、ごみが溜まると収集し、船で川下まで運搬し、埋め立て地に捨てるというようなシステムを江戸初期には確立していた。
井戸などの上水道の完備も含め、ごみ処理システムも都市政策の一環として行われていた。



3.下肥システム
江戸初期には、トイレは厠と言って川の上に架かっていたが、その後この厠を禁止した。その目的は、ごみと同じように川をよごさないためと、排泄物を下肥(しもごえ)として溜めておいて、周辺農村に配分するためである。

農民が直接とりにきた時代もあったが下肥システムが完備すると、雇われた人たちが汲み取りにきた。下肥問屋があり、排泄物は問屋を介在する商品であった。

問屋に雇われた人たちが長屋まで排泄物を取りにきて、屋敷や長屋には問屋からお金あるいは野菜などが支払われた。また長屋には大家がいるので、一軒一軒の個人に支払われるのではなく、大家に対して料金が支払われた。
江戸には参勤交代のための非常に多くの屋敷があった。各屋敷には担当の農村が決まっていて、排泄物が配分された。受け取った各農村では排泄物を醗酵させて、肥料にした。当時としては大変貴重な肥料であった。
下肥問屋の仕事はさらに発達し、下肥を桶にためて、船で周辺農村に運んだ。
下肥は貴重な肥料であったので、値上がりが激しかった。時には、下肥の値上がりの反対運動がおきた。このように当時の江戸では、排泄物は決して邪魔なものではなく、非常に重要な価値のあるものだった。

◆下肥システムへの移行
江戸初期:水路を利用して運搬。川や堀に棄てられていた。
1649年:かわや形式の雪隠のとりこわし。
1655年:江戸町奉行、川への投棄禁止。
1656年:下水の上に家や雪隠を作ることの禁止。
             →農村に無償で引き取られることがはじまった。
1711〜1736年ぐらい:近郊農民にトイレの掃除代金(屎尿料)を支払うようになる。
             →屎尿料がどんどん高騰(需要が供給を上まわる)。
1784年:道路の小便溜め桶も、160箇所ほどになる。
1791年:農民による屎尿価格値下げ運動。

◆下肥システム
半年、1年、数年で契約した。契約は、下肥問屋と店あるいは家主との間で行われた。
下肥問屋の経費:船、船頭小遣い、船人給金、積込(人足)給金、河岸、さお、など。
武家には現物(大根、茄子、漬け物など)、町方には金銭で支払われた。
下掃除(しもそうじ)権は、売買された。
下掃除人は、客に金を貸し、利子を取った。金融業でもあった。

この「下肥システム」は、江戸時代の経済政策を象徴している。現在、我々はリサイクルや環境問題に悩み、その解決に向けてさまざまな政策や規制、あるいは市民活動を行っているが、これは我々の主要な経済システムの中に、環境問題がきちんと組み込まれていないために、大変な努力を強いられているのである。江戸時代の経済政策の中には「下肥システム」が明確に盛り込まれていたし、それ以外のものについても、同様であった。



4.水制御システム

現在の河川管理の考え方は、水はできるだけ早く川に流してしまうという方法である。したがって都市河川は暗渠にしてしまうことが多い。また、川の縁ぎりぎりまで住宅や工場を建てているので、洪水対策のために高い堤防を建設している。

では、江戸時代には川はどう管理されていたか。洪水が起きるのは当たり前である、という認識のもとに行われていた。たしかに大洪水は被害が甚大なので困る。だから、大洪水に見舞われないように、山林の育成に力を注いでいた。藩ごとに山林伐採の禁止令などが出されていたほどである。当時の人々は、山の木を切りすぎると洪水が起こるということをよく知っていた。したがって山林をある程度は切らないように統治していた。例えば、「ここだけは切らない」、「ここは切っても良い」、「この種類は切らない」、というように藩ごとにその山林にあった政策が行われていた。また、川の周辺はある程度浸水してもやむをえないと考えていたので、川の縁近くには建物を建てなかった。堤防もある程度以上は高くしない。都市周辺では、水を横に流す用水路を整備した。また、逆に農村地帯には川の水がないと困るので、この場合にも、川の水を逃す用水路をたくさんつくった。

今年は、江戸幕府開府400年であるが、開府した1603年からだいたい40〜50年の間にこのような環境整備が完成されていた。



5.人々のくらし
(1)竹の活用
京橋には「竹河岸」があり、様々な竹細工が取引されていた。当時竹は、あらゆるものに使用されていた。竹は数カ月で大きくなり、二年から四年で使用可能になる生活には有用な資材であった。栃木や千葉の産地から京橋の竹河岸へ運ばれ、京橋界隈には竹問屋があった。また両国に幕府専用の竹蔵もあった。竹細工の店では日常生活に使用する様々な竹細工をつくっていた。
それは、箒、熊手、物干竿、筆、ざる、味噌漉し、茶漉し、桶のたが、火吹き竹、あじろ笠、駕篭の棒・座席吊り、傘の骨、提灯、バレン、凧、竹馬、尺八、茶勺、茶筅、弓、床、濡れ縁、屋根、垣根、水分をもつ物の包み紙など、じつに多用な物に使われていた。

竹の皮は水を通さず、滑らかなので、今でいうラップやポリ袋、プラスチック容器と同じ用途であった。竹製品は、いらなくなると燃やす、捨てることが可能である。自然素材なので最終的には土に帰る。環境をよごさない道具であった。江戸時代には、プラスチックのようなものは一切なかったのである。

(2)長屋
長屋はただの住まいではなくオフィスビルも兼ねていた。たくさんの「ふり売り(お店を持たないお店)」もある。江戸時代には、失業者がいないと思われるくらいに仕事があった。当時は、組織の中に入らないと仕事がないという時代ではなかった。何か売るものさえあれば、自分の仕事にできてしまう時代であった。

長屋の大家さんには、「あがりがまち」がある。あがりがまちに座り、そこで用事を済ますことが多かった。江戸時代の人間関係は「あがりがまち」関係である。家の中までずかずか入り込まない。だからといって立ち話で終わることもない。すっと入っていって、あがりがまちに腰掛けて交渉する、というのが日常であった。

(3)行燈(あんどん)

行灯の読書(絵本花葛羅)

当時の庶民はほとんど行燈を使用していた。ろうそくもあったが、ろうそくは高価なので庶民の生活にはほとんど使われていない。ろうそくは、ごく限られたところ、大店、遊郭、大きな料理屋などでしか使えなかった。一般庶民が使っていた行燈の火種は、ほとんどが「なたね油」である。他には「ごま油」や「くじら油」、臭いがきついが「いわし油」などもあった。

行燈は使ってみるとすぐわかるが、とても暗い灯りである。それに比べてろうそくは、とても明るい。行燈体験は、小さなお皿にサラダ油をたらし、こよりをひたし、ライターをつけて体験してみるとよい。さらに、障子紙で周りを囲うのである。実際に私は、よくこの明るさで本が読めたなと思った。現代の書物や新聞の字は、とても暗くて読めたものではない。しかし、江戸時代に出版された書物の字は、この暗さでも読めたのである。それは、当時の書物や絵は、行燈の下でも読めるようにつくられていたからである。現代に生きる私達は、つい行燈は暗くて不便だと思ってしまうが、江戸時代の人達にとっては、行燈しかないので、行燈に耐えうるような生活に変えていたのである。
当時の人々は、行燈の明かりでも読めるような出版物をつくっていた。まず墨色が濃い。小さな字でも黒々と印刷されてある。彫り文字そのものも深く明確になっている。

さらに本を読むときには、行燈の周りを囲っている和紙をたたんで、光を露出させたところに本をかざして読む。すると、まわりが暗いので、火をあてたところしか読めない。これは夜の読書方法である。行燈の下では一字一字、丹念に読むことしかできないので、大変ゆっくりとじっくりした読書になるのである。

浮世絵がなぜあのように詳細な線や色かというと、行燈の下で詳細に照らして初めてわかる線だからである。昼間から浮世絵を見ていた人はほとんどいない。和紙をもりあがらせる刷り方は、行燈の光でみたときに、浮き上がっているように見える。昼間の光や蛍光灯ではわからない色や線である。

江戸時代と現代とでは、夜のすごしかたや夜のものの見え方がこのように異なる。 私は、江戸時代のような生活を一概に不便だと決めつけてはいけないと思う。不自由という一言でかたづけてしまっては文化はわからない。ある意味では現代社会にいる我々よりも、非常に豊かな生活、生き方ではないだろうか。

さらに、町の人達は、暗いからといって早く寝るのではなく、行燈やろうそくの生活を楽しんだ。
日常生活に行燈を使っているので、たまに行く遊郭で見るろうそくの光をふんだんに使った世界はなんと明るい世界だと実感したことだろう。当時、吉原遊郭は不夜城とまで言われていたほどである。

また、行燈の下で行う裁縫は手探りだった。明るくはないのだから、着物を着るときでも、何でも、非常に多くのことが手探りだった。するとだんだんに指先が鋭敏になっていく。実際に和紙をさわる、布をさわる。いろいろなものに触れると、その感触が全く違うことがわかる。触れたときに、自分の精神状態が異なることがわかる。手で覚えていくということを実感するのである。見なくても、いろいろなことがわかるという世界である。このような生活は、人間の能力や感性を開発するのである。

(4)物に対する思い
呉服屋では着物は売っていない。売っていたのは反物である。着物だけを売っている店というのは、古着屋である。多くの庶民は、着物を古着屋で買っていた。古着といっても洗い張りをして仕立て直しをされている。使えなくなるとまた、古着屋に売る。それらを繰り返す。最後には布団に仕立て直し、一枚の着物は徹底的に使われた。最後には袋物や布、壊れ物のクッションにして、最後には燃やされ灰となり畑の肥料となった。

瀬戸物の焼きつぎなども同様で、壊れた部分を修理して長く使っていた。
江戸時代の人々は、物に対して、その存在を認めて使っていた。一つ一つの物を徹底的に使った。ある意味では物の値段が高かったからでもあるが、だからなおのこと、とことん使った。
物を大事に使い、大事な物は一生使った。

「百鬼夜行絵巻」(伝土佐光信 16世紀)(大得寺・真珠庵本)は、怪物絵巻で、たくさんの「物」が登場する。また、十返舎一九の描く作品にも、たくさんの妖怪物が登場する。妖怪は、柄杓を持っている鉄なべの妖怪、布やろうそくの妖怪、一人で歩いている提灯など、物が生きているように描かれている。これは付喪神(つくもがみ)という。生活用品が擬人化されているのだが、その背景には、道具は命を得る、生きている、生き物になるという思想が根強くあった。付喪神になるのは、身近な道具ばかりである。江戸時代末期まで、このような道具観が根強くあった。この信仰から考えると、お父さんに買ってもらった机を一生大事に使う、というような思いにつながる。道具そのものが、人間のように思えてくる感覚でもある。ものや道具は、人の心によって育てられるのである。

さまざまな付喪神




6.都市と農村のネットワーク
江戸時代は、いかにエネルギーを使わないで、生活を豊かにしていったか。
江戸という都市は大変清潔だと言われている。幕末に外国船が入ってきて、コレラが流行したが、それまでには大きな疫病などは発生していなかった。当時の江戸は、130万人の人口をかかえた巨大都市である。世界最大の規模であった。ところが病気の蔓延も見られない清潔な都市でもあった。その理由には、ごみを出さない循環システムと、ごみの処理システムが機能していたということが重要である。このシステムは都市だけではつくれない。当時の農村人口は日本全体の80%に及ぶ。農村人口の方がはるかに多い。都市と農村が緊密なネットワークを組んでいたためにつくることができたシステムなのである。

現在の日本は農村が崩壊しているため、大都市の東京ではこのようなシステムは機能できないだろう。
このことは環境問題の解決に対して、かなり深刻な問題だと私は思う。



7.近代化が失った価値観
江戸時代のエネルギー源は石油依存型ではない。当時はエネルギーも食料も100%自給の国であった。山で木を切りだし、炭をつくり、なたね油を使う。山は必ず人が手入れし、大変重要に扱われた。人々は、川の水から海の水までつながっていることを知っていた。江戸時代は、大量生産、大量消費、大量廃棄のライフスタイルではない。

このことは、日本だけでなく産業革命以前までは、世界中どこも同じだったはずである。
基本的に生活に必要なものは自分でつくるという生活。そのような時代の一人一人の人間の能力は非常に高かった。家を建て、炭をつくり、野菜をつくり、木を切り、着物をつくる。多くの能力をもっていた。我々は、近代化とともに、このような能力を捨ててきたのである。
物を買うということは、自分のつくるという能力を捨てることに等しい。

私は、ヨーロッパで起こった産業革命は、人類史上極めて特異なことだと思う。産業革命の背景には植民地政策がある。誰かを、何かを踏み台にして達成された。産業革命は、特に、イギリスがインドを植民地化したことによって完成された。

インドは、自分の力で綿花を栽培し、高度な技術で木綿を製造し、周辺諸国に販売し、国を富ませていた。日本もその一つである。日本の伝統産業として絹が取り上げられることが多いが、私は、 日本が産業革命に至るまでのプロセスや、江戸時代の人と自然との関係を考える上で、木綿は大変重要な存在ではないかと考えている。綿花の生産を江戸時代の人たちが受け入れて、栽培し、自給生産ができるようになっていくまでの歴史は、江戸時代の間に完成されたのである。

インドでは、紀元前から行われていた綿花栽培と木綿製造の技術。それをイギリスが植民地化したとたんに失われた。なぜ、失われたか。イギリスが自国に工場をつくって、産業革命を起こし、インドで安く作らせた綿花を輸入し、機械化し大量生産し、コストが下がった木綿をインドに売りつける。そうなると、インドの人たちはどうするか。インドの人たちは自分達がつくってきたものを捨てた。
それよりも安いイギリスからの輸入木綿を買うようになった。能力を捨てて、植民地化されるというのはこういうことである。

このことに対抗するために、ガンジーは何をしたか。ガンジーは、インドの独立に何が必要か、さまざまな運動をした中で、チャルカの運動を起こした。
ガンジーは、人々の納屋の中にある「糸つむぎ機を取り出して、自分でつむぎなさい」。と言った。
ガンジーはイギリスで教育を受けた階級の高い出身であったが、一枚の白いインド木綿を体にまとうようになった。私は、ファッションという意味で、あれほど着る物に主張が込められたことはなかったのではないかと思う。ガンジーは、一枚の手織りの布を体にまいて、糸つむぎをした。
ガンジーは、大量生産・消費システムがそこまで浸透してしまったインドでは、こんなことは無駄だとわかっていたが、そうすることで伝えるしかなかったのだ。

近代社会において、世界が受け入れた価値観とは、植民地政策を推し進め、誰かを踏み台にすることによって、大量生産、大量消費、大量廃棄システムを浸透させ、利益を得る(能力を捨てる)ことである。この価値観に従えば、近代化はできる。しかし同時に、自給生産力を失っていく。
現在の日本の状況になるのは当然のことである。当然、環境破壊も悪化する。そして、そのことに我々は気がついている。その解決のために、「リサイクルをしよう。」という発想では解決はできまい。

日本は、戦前あるいは戦後しばらくまでは、江戸時代と非常によく似た自然環境であったと思う。農村人口が多かった。しかし、現在のように減反政策が次々と行われ、食糧自給率がここまで低くなってしまった現在の日本では、本当に環境を守れるか、非常に難しいと思う。江戸時代の400年間の歴史をふりかえり、江戸時代の人々の環境と調和した暮らしぶりを知ってしまうとそのような思いになる。

近代化という名の元で、価値観の転換が進められた結果が、現在の環境問題の実態である。
私は、今、我々が環境問題の解決方法を考えるときに、我々人間の価値観を冷静に問い直さなくてはならないと、強く思う。


 
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