講師紹介
原田 正純氏
熊本学園大学社会福祉学科教授。1934年鹿児島県生まれ。59年熊本大学医学部卒。72年熊本大学医学部助教授。98年退官後、熊本学園大学教授に就任。水俣病、カネミ油症、ジャカルタ湾の重金属汚染、中国・カナダの水俣病など幅広く調査・研究にあたり、中毒訴訟の原告側証人としてしばしば出廷。94年UNEPグローバル500賞受賞。著書多数。
 
 
1.水俣病の40年
 
1995年9月、日本社会党(当時)、自由民主党、さきがけの与党3党が水俣病に関する与党解決案をチッソと患者各派に提示した。内容はともかくとして水俣病が正式に発見されてから40年目にしてやっと政府の正式の解決案が示されたのだった。水俣の患者の声が霞ヶ関に届くのにどうして40年もかからなければならなかったのか、そのことが問題である。しかし、水俣の患者の声が霞ヶ関に届くのに40年もかかったというために、かえって、見え難いさまざまな問題をあぶり出してくれた。この国の企業の責任と体質、政治のありよう、行政の構造や不作為、司法の役割、裁判のあり方、医学研究、教育のあり方などなど多くの問題の所在を明らかにしてくれた。その後、紆余曲折はあったが1996年5月にチッソと患者各団体との間に和解が成立し、裁判は取り下げられた。それで水俣病事件は1つの大きな転換期を迎え、新しい時代に入ったことは事実である。そして、和解後、しきりに水俣病は終ったかのような印象をもつものが多い。しかし、水俣病は決して終っていない。
 
和解の中で私が最も不満だったのは、この巨大な事件の行政の責任が曖昧にされたことと、原告たちがメチル水銀の影響を受けているかどうか(水俣病かどうか)が曖昧のまま決着がつけられたことである。この40年間、患者や家族たちはそのことを問い続けてきたのである。行政の責任を明らかにすることは将来に活かすためである。「何時、誰が何をしてはいけなかったのか」、「何時、誰が何をすべきであったか」などという検証がないまま、すなわち、どこにどのような責任があったか曖昧なままで、何を教訓にすることができるだろうか。「安全性」を企業や行政、そして私たちがどう考えるかは将来、同じことが繰り返されないための格好の教材であった。
 
また、「何を水俣病とするか」という問題は今、世界中で新しく起ころうとする公害病に対してどう対応して、どう予防し、被害を最小限に抑制していくかという問題である。同時に、私たちが目の前にある事実をどのように拾いあげ、事実をどう積み重ねて、既存の概念や知識をどう打ち破っていくかの問題でもあった。環境省は「水俣の教訓を世界に発信する」と言っているがこのような点を明らかにせず、事実を覆い隠したままでは何も発信できないのである。
 
 
2.検診拒否
 
私が水俣を最初に訪れたのは1960年の夏であった。水俣病の原因は「工場排水中に含まれたメチル水銀が魚貝類に蓄積され、それを食べた人におこったメチル水銀中毒である」と言うことはその前年1959年の秋には明らかになっていた。現地を訪れて、まず、病気の悲惨と自然の美しさのアンバランスにショックを受けた。同時に、病気の悲惨さより、患者たちの貧困と差別にさらに大きなショックを受けたのだった。患者たちは昼から雨戸を閉めて隠れるようにして住んでいた。全く予想だにしていなかったことだが、私たちは診察さえ拒否された。
 
「先生たちが来るとマスコミが嗅ぎ付けてまた記事にする。テレビが来る。そうするとまた魚が売れなくなって、みんなが迷惑する」というのが理由の1つであった。彼らはただ、親の代から海の魚をとって食べただけなのに、それが、どうして悪いことをした罪人みたいに隠れて生きていかなければならないのか、その時、私たちには理解できなかった。
 
もう1つの理由は「もう、何回も何回も先生たちから診てもらった。入院もした。しかし治らんかった。治らんからもういい」と言うものであった。これは私たちにとってその後、医学の原点になるほどの衝撃的な言葉だった。医学はもちろん、治せない病気を沢山もっている。医学は決して万能などではない。「治らない病気を前にした時、医師は何ができるのか?また、何をすべきか」、「医師と患者の関係は“治す−治される”という関係しかないのか」などという重たい命題をこの時、突きつけられたのであった。実は治る病よりも治らない病を前にしたとき、することは沢山あるのだが、それに私が気付くのはさらに後のことであった。さらに言うなら、私たち医師は1人の患者の治療に四苦八苦して、その限界に己の無力さを感じているのに、一方ではこのような患者を、病気を大量に造り出しているのが現代社会であることを知った。「何と言うアイロニー(皮肉)か」と思った。同時に、その時の現実、悲惨な状況を見てしまったことが私に「見た責任」みたいなものを背負わせてくれたのだった。
 
 
3.公害は弱者に
 
1956年5月1日、細川一ほかチッソ付属病院の医師たちは水俣保健所に「水俣市の漁村地区に原因不明の中枢神経疾患が多発している」と正式に届けた。この日が水俣病正式発見の日とされているのである。細川ら医師たちの発見の契機となったのは3歳から5歳の幼児たちに次々と奇妙な神経系の病気が発病していることに気付いたからであった。このことによって明らかなように、環境汚染によって最初に被害を受けるのは、そこに住む生理的弱者すなわち、胎児であり、幼児であり、老人であり、病者であることを示している。また、正式発見第1号患者の家は満潮のときは窓から魚が釣れるほど海に寄り添ってあった。その家の5歳の女児と3歳の妹がほとんど同時に発病して気付かれたのであった。医師たちはその母親によって隣にも同世代の女の子が同じような病気にかかっているという驚くべき事実を知らされた。さらに、この家では数年前からネコを飼うと1・2ヶ月のうちに全部、狂ったように走り回り、飛び上がり、よだれを流し、窓から海へ飛び込んだ。家族は「ネコが自殺をした」と気味悪がっていたと言う。すなわち、環境汚染によって最初に被害を受けるのは自然の中で、自然とともに生きている人たちであった。この人たちは、どちらかといえば社会的には弱い立場の人たちである。つまり、いわゆる公害の被害は弱者に集中するという事実を示していた。
私はその後、カナダやブラジルなど世界各地の公害現場を訪れ、そこでも常に弱者が公害の被害者という構造をしばしば経験をしてきたことで、このことはますます確信をもった。
 
 
4.原因と原因物質
 
水俣病(当時は奇病)の原因は、水俣湾産の魚貝類であることはすぐに、明らかになった。しかも、当初言われた伝染病も否定されたのであった。しかし、魚貝類の中の何が原因物質かは、もちろん不明であった。この時、チッソも行政も「原因が分らない」ということを理由に何の有効な対策も立てなかったのである。熊大の実験では水俣湾産の魚貝類を与えると32日から65日の間でネコはみんな発病することが確かめられていたのであって、「原因は魚」と言うことは明らかになっていた。これは原因と原因物質とを意図的に混同させた悪辣な屁理屈である。例えれば、仕出し弁当で食中毒がおこったのに、弁当の中の何が原因か、唐揚げか刺身か分らないという理由で弁当を売り続けたようなものであった。食品衛生法では即、販売禁止、営業停止であるのに、この時は放置されたのみか、信じがたいことだが、原因物質が分っても1965年までメチル水銀を含む廃水を流し続けたのである。
 
水俣病はある種の中毒で、魚貝類が原因であることが分ったが、原因物質が分らなかった。原因物質の究明にはまず、病気の特徴を明らかにすることから始められねばならない。そこで病気の特徴を錐体外路系障害ととらえた熊本大学グループはマンガン中毒を疑った。特徴を多発神経炎と考えた他のグループはタリウム中毒を疑った。特徴を視覚障害ととらえたもう1つのグループはセレン中毒を疑った。これらの物質は環境や生物、ヒトから高濃度に検出された。しかし、原因物質でないのが決定的であったことは、これらの物質をネコに与えても水俣病を発病させることはできなかったことであった。1958年頃になると臨床症状や病理解剖の特徴が明らかになってきた。
 
臨床症状としては四肢の感覚障害、運動失調、求心性視野狭窄、聴力障害、言語障害、振戦などが高率にみられることが明らかになった。病理では大脳において皮質が特徴的に傷害されていた。すなわち、後中心回(感覚中枢)、後頭葉鳥距野(視覚中枢)、側頭葉(聴覚中枢)が最もひどく傷害されていた。また、小脳の傷害も顆粒細胞層の傷害が著明であるという特徴が見られた。
 
 
5.ハンター・ラッセル症候群
 
解決の糸口は職業病であった。1940年、イギリスで起こった有機水銀(メチル水銀、エチル水銀など)の農薬をつくっていた工場の労働者の中毒事件がヒントとなった。すなわち、その時、報告された症例の臨床症状、病理所見が水俣病と完全に一致したのだった。その症状群を報告者の名をとって、後にハンター・ラッセル症状群と呼んで有機水銀の典型症状とされた。水俣においてもその後、この症状群が水俣病の典型症状とされた。したがって、ハンター・ラッセル症状群は水俣病の原因究明の上ではきわめて重要な役割を果たした。しかし、この例は有機水銀中毒ではあったが工場労働者の職業病(直接中毒)で、直接ばく露による中毒で水俣病のように環境汚染によって食物連鎖を介した間接的中毒ではなかった。このような環境汚染による広範囲の住民の有機水銀中毒は人類史上はじめての事件であった。したがって、ハンター・ラッセル症状群が水俣病の特徴を示したことは事実であるが、水俣病の患者が示す症状はハンターらの例よりはるかに複雑で多様な病像を示していたのである。対象者(汚染者)も胎児から幼児、老人、もともと病気をもっていた人まで多様であり、魚貝類の食べ方もさまざまであった。それなのに水俣病をハンター・ラッセル症状群という狭い枠の中に閉じ込めてしまったのが間違いであった。ハンター・ラッセル症状群イコール水俣病というのはあくまで仮説であったのだが、いつの間にかそれが定説になってしまった。そうなると、新しい事実が出てきても逆に、定説が事実を切り捨てる役割を果たすようになった。ハンター・ラッセル症状群をそろえていないと水俣病ではないと診断されたのである。
 
さらに、水俣病の原因が明らかになった時点で、同じ魚貝類を食べた家族や村人たちは大丈夫かという当たり前の発想が欠如してしまった。あのネコ実験に協力した家族のことも忘れ去られていた。1957年、熊大の研究班は熊本市のネコを水俣市の患者が多発している漁村に持ってきて飼育を依頼した。その結果が32日から65日の発病であった。ネコに関心が向けられた反面、ネコを飼育した家族がその後どうなったかということさえも追跡されなかった。
 
原因究明が「上りの研究」だとすれば、汚染による影響の全ての実態を明らかにする「下りの研究」が欠落してしまったと言える。それは、結果的に不知火海でおこった有機水銀汚染による影響の全貌を明らかにすることに蓋をしてしまった。当時、ネコが水俣病で斃死(へいし)した地域には少なくとも25万人が住み、まぎれもなく汚染された魚貝類を多食していたのである。
 
 
6.魚を食べていない
 
1961年頃のこと、私は、ある家の縁側で2人の兄弟が遊んでいるのを目にした。彼らは2人とも脳性小児まひ様の障害児で、その症状は全く同じであった。「2人とも水俣病でしょう」と聞く私に、その子の母親は「上の子は水俣病ですが、下の子は違う」と答えた。不思議に思った私は思わず「どうして違うの」と聞いてしまった。その母親は「下の子は魚を食べていません、生まれつきです」と怒ったように言った。そして、母親は、「そう、先生(医師)たちが言ってるでしょう。でも、私たちは信じていません。私が食べた魚の水銀がおなかの中でこの子に行ったと思うております。この村には同じ年に同じような子どもがたくさん生まれています。他に原因があるのだったら教えて下さい」と言った。当時の医学的常識では血液・胎盤関門(Blood・Placenta Barrier)のために「毒物は胎盤を通らない」というものであった。この時の母親の話には説得力があったために、それから私はそのことを確かめるための水俣通いが始まったのであった。
 
この子たちの存在はすでに、多くの研究者が注目していたが、(時間が経過していたために)証拠がなく、動物実験に集中していた。
 
臨床的には「一般の脳性小児まひとの相違点を明らかにする」という接近法も「水俣病との共通点を明らかにする」 という接近法も成功しなかった。そこで「この集団発生したこの子らは同一(共通)症状で同一疾患(原因)であることを明らかにする」と いう接近法をとった。これは成功した。彼らは全く同じ症状を示していたのである。さて、次の段階として、(1)発生率が異常に高いこと。 多発地区においては6.9%、脳性小児まひの日本の平均0.2%前後であった。(2)患者の発生は1952年から1963年の間に集中し、 発生場所も水俣病のそれと完全に一致すること。(3)家族に水俣病患者が高率に居ること。(4)母親が妊娠中に魚貝類を多食したこと。 (5)母親に軽い水俣病の症状がみられること。(6)他に積極的な理由が見つからないこと。これらの状況証拠(疫学条件)から「胎生期に 発病した有機水銀中毒である」と結論した。しかし、臨床・疫学的な研究だけでは胎盤経由のメチル水銀中毒は認められず、その中の2人の患 者が死亡して、病理解剖の結果から彼らが胎児期におこった水俣病であると認められた。それは1962年11月であった。胎盤経由の中毒が 証明されたのは世界で水俣病が始めてで、それは「胎盤は毒物を通さない」という神話が崩れた時であった。
 
その後、私は保存臍帯から水銀を分析することを思いつき、収集して分析を依頼した。その結果、環境汚染の推移(チッソのメチル水銀排泄量)と臍帯中のメチル水銀値とが一致した。これは「子宮は環境である。環境を汚染することは子宮を汚染することになる」ということを示す恐ろしいデータである。さらに、実験的にも、無機水銀は胎盤を通過しないのに、有機水銀は胎盤を通過すること、それによって胎生期にメチル水銀中毒がおこることが証明された。現在、私が確認している胎児性患者は64名、死者13名。それでも、生まれて直ぐ亡くなった者などの数は入っていない。
 
 
7.世界の水銀汚染
 
私はカナダ先住民居留地、アメリカ、インドネシア、ブラジル・アマゾン川流域、タンザニア・ビクトリア湖、中国吉林省などの水銀汚染現場 はもちろん、インド・ボパールの農薬漏洩事件、ベトナムの枯葉剤影響、韓国・温山コンビナート、アジア各地で見られる砒素の大規模地下水汚 染などなど心が痛くなるような現場を見てきた。それは私にとっては、水俣をよりよく理解することとなった。水俣病が今日抱える問題を世界 の汚染の現場は貴重な解答を与えてくれたこともあったし、逆にこれらの現場を水俣病に映してみると見えてくる問題もあった。
 
カナダ・オンタリオ州、インデアンと呼ばれていた先住民の居留地では、水銀汚染によってネコが狂い、彼らの毛髪から100ppm以上の水銀が検 出されていた。魚からも平均5ppm近くの水銀が検出されていた。汚染源は居留地に流れ込む川の上流にあるパルプ工場の苛性ソーダ工場であった。 水銀による環境汚染はカナダ政府も認めたが、水俣病の発生は認めなかった。その理由は水俣病はハンター・ラッセル症状群をそろえたものだと いう日本の水俣病の診断基準を用いたためであった。それこそ、まさに私たちが長い間「水俣病とは何か」と国内で争ってきたことではなかったか。 被害を矮小化したい勢力は水俣病の診断基準を厳しくして水俣病と認めなかった。影響(被害)の全貌を明らかにすることは、最もミニマムな水俣 病は何かということを明らかにすることであった。水俣では重症の患者が多発して水俣病が発見された。ところが今から汚染が始まり、進行して いるところではそのような重症患者ではなく、最も軽症、ミニマムな水俣病は何かが問題になるのである。かっての水俣が再現された時はすでに 手遅れであることはわが国の行政や研究者が最もよく知っているはずである。このように国内の問題と思い懸命に取り組んできた問題が実は国際 的グローバルな問題でもあったのである。逆に、そのような現場で得られた所見は水俣病の底辺を知る有力な証拠ともなるのである。
 
ここでも弱者、自然の中で自然と共に生きている人々が、環境汚染の被害者だった。その上に正当に被害を認められなかった。しかも、その原因に なったのは日本の水俣病の診断基準であったと知った時はショックであった。
 
2002年、私は再度、カナダの汚染地区を訪れた。1975年に私たちが頭髪水銀値を測定し、臨床診断した住民の4割はすでに死亡していた。 当時、私たちが軽症だが水俣病と診察した住民9人を含む50人を診察できたが、いずれも当時より症状が進行しており、むしろ水俣病としては はっきりしていた。私は私たちの診断に確信をもった。ところが、水俣病を否定してきたカナダ政府が実は1985年以来、水銀障害協議会 (Mercury disability board)をつくり、わが国の水俣病の審査基準で審査して140人を認定し補償金を支払っていたのである。それでも 協議会委員長は「われわれは水俣病を正式に認めたわけではない」と言う。
 
アマゾン川(ブラジル)流域では上流で採金の際に大量の水銀が使われている。そのために現場の労働者のなかに無機水銀中毒患者が多発している。しかし、これは職業病であって水俣病ではない。それはそれで労働衛生上は対策が必要な重要な問題ではある。
 
上流で棄てられた大量の水銀は結局、最終的には河川に流れ込みアマゾン川を汚染している。それはアマゾン川下流の魚が汚染されており、漁民たちも汚染されていることは、彼らの頭髪水銀値が上昇してきていることで明らかである。水銀値が高い者ではすでに安全基準の50ppmを超えて危険な状態にあった。1995年には私は頭髪水銀値が20ppmを超えた者で5年以上たった者を50人調査したが、その中に四肢の感覚障害、共同運動障害、視野狭窄、ふるえなど軽症だが水俣病と診断してよい患者を6人確認した。この状況では胎児性水俣病が発生してもおかしくない。そしてここでも問題になるのは、最もミニマムな(微細な)水俣病は何かということである。狭い水俣病像では今から新しくおころうとしている現場ではほとんど役に立たないのである。
 
 
8.胎児におよぼす微細な影響
 
今や、水銀汚染は局地的な濃厚汚染から、地球的・広範囲の汚染に拡がっている。したがって、1960年代の水俣病のような患者は当然、今から発生することはないであろう。胎児性水俣病に関しても水俣で私たちはあまりに重症な患者を診すぎて軽症は見落としてきた可能性がある。現在、世界各地で最も必要とされている情報は軽症患者、とくに胎児に関する軽微な影響である。すでにカナダ、ニュージランド、イラク、ファロー島などで実にきめ細かい調査が続けられて報告されている。これらの報告では母親の頭髪水銀値とその子の調査を7−14年にわたってしている。その結果、水俣で見られるような神経精神症状を伴う(脳性小児まひ様)胎児性水俣病は見つかっていない。しかし、母親の頭髪水銀値が10−20ppm(安全基準は50ppm)で生まれた子どもの精神面に一定の影響があるという。例えば、ファロー島の調査では記憶力、注意力、言語理解に影響があると1997年に報告している。もちろん、同時に有機塩素系化合物(ダイオキシン)などの影響も考慮に入れなくてはならないという批判もあるし、その程度の汚染では影響ないという報告もある。しかし、最も広範な汚染を2度も繰り返した日本にはこのような調査は一切なく、したがってデータもない。それから言うと日本の水俣病に関する研究は圧倒的に遅れてしまった。それは、行政が一貫して微細な影響に対して蓋をしてきたからである。それに遠慮した研究者の怠慢である。環境省は「日本の公害経験を世界に発信する」と言うが、今から何を世界に発信できるのか、発信するものがあるのかが問われる。
 
ヨーロッパ各国、アメリカ、カナダでは胎児に対する影響を考えて、妊婦に対しては大型魚の摂取量を制限してきた。広範な地球的規模の低濃度汚染の結果、世界中のクジラ、メカジキ、イルカ、マグロ、フカなどの大型魚の水銀値が驚く程高くなっているからである。日本は2003年6月になってやっと妊婦に対して7種の大型魚の摂食のガイドラインを示した。一般に、普通に食べている場合はそれほどパニックなる必要はない。しかし、相変わらず先進国の中では遅い対応であった。
 
児性水俣病は20世紀、胎児の受難の幕開けであった。その後、カネミ油症事件の黒い赤ちゃん(PCBなどの中毒)やベトナム枯葉剤による先天異常児、セベソ(イタリヤ)、ラブキャナール(アメリカ)などでダイオキシン汚染によると考えられている先天異常児などが報告されている。水俣で保存臍帯を集めてメチル水銀を測った経験から「子宮は環境である」と述べたが、環境を化学物質の汚染から護ることは未来のいのちを護ることになる。
 
 
9.水俣病の教訓
 
水俣病の小なる原因はメチル水銀である。中なる原因はチッソが水銀を含む廃水を無処理で流したことである。最も大きな原因は相手の立場 に立って考えないこと、差別の存在であった。工場から見た海は広くて廃棄物を棄てるには格好な場所としか見えなかったのだろう。海は広 いから希釈されて無毒化すると考えたのであろう。しかし、排水口の先には海があり、そこには魚貝類など生物が多数生きており、その魚貝 類を食べて生活している20万人以上の人々が居ることを考えたなら、相手の立場を考え、少しでも漁民と同じ立場に立ったなら少しは水俣 病事件の歴史も変ったものになっただろう。これは想像力の貧困さによるものである。それからいくと想像力の育成こそ教育の重要課題と考える。
 
また、水俣病は「いのち」の大切さ、「いのち」の循環を私たちに具体的に見せてくれた。まさに、20世紀の最大な「負の遺産」の1つと して語り伝える事件である。足尾鉱毒事件は100年前におこった。しかし、現在なお多くの研究者たちによって多面的な研究がなされている。 それも大学教授から一般市民をも巻き込んで研究はなされている。その結果、日本の近代化が炙り出されている。それから考えると水俣病は今 から100年も200年も研究される事件である。そして、水俣病は決して僻遠の地の特殊な事件ではなく現代に生きる私たち自身の中にある 事件である。
 
私は以前、「水俣病は鏡である。この鏡は、みる人によって深くも浅くも、平板にも立体的にもみえる。そこに、社会のしくみや政治のありよう、 そして、みずからの生きざままで、あらゆるものが残酷なまでに映しだされてしまう」(「水俣病が映す世界」)と書いた。それを具現化したいと 考えている。
 
「水俣学」講座を熊本学園大学で開講した。これは水俣病の医学的知識を教え、広めるためのものではない。水俣学は「何のために学問をするのか。何のために技術開発、経済成長を追及するのか」を水俣病事件を通じて考える講座である。そして境界不鮮明(バリアフリー)の学問である。学問の分野、学閥、専門家と非専門家などの壁を取り払い、既存の枠組みを一度取り払い、再構築する学問、弱者のための学問、現場を大切に、現場から学ぶ学問を目指している。
 
 
参考図書
タイトル 著者 出版
「水俣病」 原田正純 岩波新書
「水俣病は終わっていない」 原田正純 岩波新書
「水俣、もう一つのカルテ」 原田正純 新曜社
「裁かれるのは誰か」 原田正純 世織書房
「水俣病と世界の水銀汚染」 原田正純 実教出版
「胎児からのメッセージ、水俣、ヒロシマ、ベトナム」 原田正純 実教出版
「慢性水俣病、何が病像論なのか」 原田正純 実教出版
「水俣が映す世界」 原田正純 日本評論社
「金と水銀」 原田正純 講談社
「環境と人体、公害論」 原田正純 世界書院
「いのちの旅、水俣学への軌跡」 原田正純 東京新聞出版局
「水俣学講義」 原田正純 日本評論社
 
 
 
 
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