加藤尚武氏
講師紹介
加藤 尚武氏
京都大学大学院文学研究科教授。
1937年東京生まれ。東京大学文学部哲学科卒業。千葉大学教授などを経て現職。科学技術庁生命科学審議会専門委員。
※所属は講演時のもの。平成13年4月現在、鳥取環境大学学長。


1.歴史人口学からみた文化予測

米商務省統計局がインターネットのホームページ(http://www.census.gov/main/www/popclock.html)で表示している世界人ロカウンターは、1999年7月18日夜(日本時間19日午前)に、60億人を突破した。
1825年 10億人
1927年 20億人(122年経過)
1960年 30億人(33年経過)
1974年 40億人(14年経過)
1987年 50億人(13年経過)
1999年 60億人(12年経過)
2013年 70億人(14年経過)
2028年 80億人(15年経過)
2058年 90億人(30年経過)

1960年、世界人口は30億人であった。その2倍である60億人に達したのは1999年である。人口が2倍になるのに要した時間はわずか40年。だとすると、これから40年後の2040年には、120億人になるのかという心配がなされるが、実際には伸び率そのものが減少しているので、今後40年間で120億人になるはずはない。
おそらく世界人口のピークは2050年よりもさらに後になるのではないかと予測されるが、それでも大変な数字である。
しかも、現在世界人口約60億人のうち、約10億人は飢餓の状態にあるという説がある。
現在人口の2倍になったときの飢餓人口を予測すると恐ろしい。食糧を増産するとか人口増加を抑制するなどの措置が必要である。
日本では女性1人が生涯出産する子供の数は1.32人にまで下がっている。この数字は日本が急速に高齢化社会に直面することを意味している。また、今後50年間で日本の人口は半減するという説もある。日本の人口が半減したら、日本の産業社会の位置は維持できない。半数くらいは外国人労働者が占めることになるだろう。
我々は、日本の未来世代が育つために、子育てということに関してもっと真剣に取り組まなくてはならない。

図:世界人口増加率の長期的推移
世界人口増加率の長期的推移
(河野稠果『世界の人口』第二版、東京大学出版会、33頁)

この図は、人口の変動率の歴史を表したものである。1年間に世界総人口の2%増加した年が1975年であってそれ以後は、増大率そのものは下がっている。人口そのものは増えているが、増大率は減っているということである。
世界人口は、1975年を境にして二つに分かれる。この図からは、人口が安定した時代から大変動した時代を経て、また人口が安定する時代へというふうに3区分に歴史が動いていることが分かる。ヘーゲルやマルクスは、人口はずっと右上がりで増加するというイメージで考えていた。私たちも1970年代あたりまでは、地球のあらゆる数量的なデータは皆右上がりで増えていくだろうと思っていたのではないか。しかし、この図をみるとそうではない。限りなく増えていくのではない。増えていくのは、短期間の出来事にすぎないのだ。1975年は世界の歴史を二分する分水嶺である。
もう一つ重要な分水嶺として1984年がある。
レスター・ブラウンは、食料について、「世界の穀物生産量の伸びは1984年以来鈍化しているが、この原因は新しい土地が不足していること、潅漑と肥料使用量の伸びが鈍化してきていることである」(レスター・ブラウン「環境ビッグバンへの知的戦略」枝廣淳子訳、家の光協会、1999、37頁)と発表した。
食糧増産のため、現在以上に耕地面積を増やそうとすると環境破壊が加速される。また、単位面積あたりの作柄を増やすための肥料使用量が限界にきている。品種改良そのもの限界がきている。これらを踏まえて、1984年以降は穀物生産量の増加はできないと彼は警告したのである。



2.大人口定常時代の産業と環境の特徴

私は、世界的な人口の増大のピークを乗り切るために、今からライフスタイルをゼロエミッションに転換することを提案する。20世紀は、ゴミ戦争の時代であった。我々はこの轍を踏んで、21世紀には、廃棄物をできるだけ少なくするような生産体制に切り替えておく必要がある。このことは、21世紀全体の「ものづくり」に関わる基本政策でなければならないだろう。
この考え方をもとに20世紀の省みつつ21世紀の文化を予測すると以下のようになる。


1) モノを作って売るよりも、モノ作りの情報を売る方が有利になる。
2) 食糧、エネルギー資源などあらゆる資源が、つねに逼迫した需給関係になるので、個人が乱暴な自由を発揮する時代から理性的なコントロールが必要な時代が到来する。高度の管理能力をもつ集団が有利になる。
3) 廃棄物処理のコストが高くなると、自由選択そのもののコストが大きくなる。国家規模での意志決定を「至上的なもの」(主権的なもの)と見なす態度から、地球規模での長期的計画性が問われる。
4) 細胞工学の発達によって、自然性と生命性が分裂する。人工的なものに変わって野性的なものの価値が増大する。都市と田園の価値が逆転する。
5) フローからストックへ、さらに最終的なストック戦略が重要。究極の最終消費目標が問われる。

たとえば経済成長は手段的な価値の増大を意味するが、長期にわたって生産と消費の上限が一定していると、地球規模で最終的にどのような価値を永続させるかが問われる。
19世紀が「自由」、「国家」を定着させたとすれば、20世紀は「進歩」(変化)を定着させ、「人権」(個人)を定着させつつあるが、21世紀は新しい内的な価値としての「平和」「自然」「理性」「永続性」を確立するであろう。



3.ライフサイクル・アセスメントと「永続性」の文化

例として住宅の永続性を、日本と欧米とで比較してみる。

1) 住宅の除却年数―同年度の資産台帳に記載された住宅の半数が、取り壊される年数。
アメリカ100年、日本40年。
2) 住宅の代替わり周期―全住宅戸数を年間建設戸数で割った数字。
イギリス141年、フランス85年、ドイツ79年、アメリカ130年、日本30年。
3) 住宅への投資周期―全世帯数を年間建設戸数で割った数字。
イギリス73年、フランス59年、ドイツ56年、アメリカ38年、日本23年。

(木俣信行「持続可能な住まいの実現」水谷宏編「地球の限界」日科技連、1999年)

西欧先進国が厚いストックの文化の上に進歩と変動の文化を築いたので、それに追いつこうとする日本などの後発近代化諸国が、結局は近代以前のストックの遺産では追いつけないという構造を示している。
しかし、「作っては壊す」ことを繰り返してきたこと日本でも、21世紀には、「ものを長持ちさせる」ライフスタイルに変わっていく必要があることは言うまでもないだろう。



4.技術の変質と自然の自己回復力

自然はその平衡を回復しようとする内在的なシステムを持つが、それは破壊不可能な能動的な自己回復システムではないということが判明した。核技術は原子の同一性を破壊し、遺伝子操作は遺伝子の同一性を破壊し、地球温暖化は地球の熱平衡システム(ガイア)の同一性を破壊し、臓器移植は個体の細胞レベルでの同一性を破壊する。自然に内蔵された自己同一性の回復システムを破壊することで現代技術は成り立っている。われわれには、もはや身を委ねることのできる自然的な自己調整システムはない。自然的なシステムが人間に対して制裁として機能するためには、システムの加害者にシステム自体が被害をもたらすという同時性と、被害の原因となる行為に対して、被害自体がその原因や制裁を課すという因果関係の認識可能性がなければならない。自然的なシステムが必ず制裁の機能を発揮するとはいえない。われわれは「あるべき自然」を自らの人工的な政策で維持しなければならない。
このことは素朴な自然主義の主張が成立しないことを告げている。「自然は服従されることによって征服される」というベーコンの言葉は、裏をかえせば人間がどんなに自然を征服してもそれは神の創造した自然とその法則への服従にすぎないという意味にもなる。現代技術は自然支配のベーコン的な限界を打ち破った。
技術そのものの人為的制御が必要になってきているのである。



5.環境問題とは廃棄物問題である

耐用年数から使用年数を差し引いた年数が廃棄物年数である。たとえば80歳の耐用年数をもつ人間が、60歳の定年で社会的使用年数を終えたとすると、残りの20年が廃棄物年数になる。人体の場合には日本では完全な焼却処分をする。その最後の瞬間まで誰の死体か、死亡原因は何かというデータが保存されている。これを「経過保存的処置」という。それに対して私が鼻をかんだちり紙をゴミ箱に捨てると、もう誰のものか分からなくなる。これを「経過消滅的処置」という。廃棄物で完全な経過保存的処置をするのは人体だけだったが、最近では廃棄物の国際条約が経過保存的処置を要求している。たとえばA社がPCB10キログラムの処置をB社に委嘱し、その廃棄物をB社がC社にゆだねた時、それがA社から出たというデータが保存されなくてはならない。不法投棄が行われた時の製造物責任が問える仕組みになる。
廃棄物のなかで、長期的廃棄物、超微量廃棄物、大量廃棄物が問題になる。



6.環境倫理学の概要

1) 地球の生態系という有限空間では、原則としてすべての行為は他者への危害の可能性を持つので、倫理的統制の下に置かれる。
2) 未来の世代の生存条件を保証すると言う責任が現在の世代にある。資源、環境、生物種、生態系など未来世代の利害に関係するものについては、人間は自己の現在の生活を犠牲にしても、保存の完全義務を負う。
3) 生物の種の絶滅の原因となる行為を、自然史そのものの時間尺度よりも短い期間に、行ってはならない。

環境倫理学の原理となる考え方は、次の三つである。
1) 人間だけでなく自然も生存の権利をもつ(自然物の生存権)。
要するに、自然は人間のためにあるのではないということである。人間に何の役にたたない自然でも守って行かなくてはならない。「人間の役に立つから自然を守るのだ」という了見はエゴイズムだし、結局は「人間のための自然破壊だから許される」という抜け道をわたることになる。
2) 現在の世代は未来の世代の生存可能性をせばめてはならない(世代間倫理)。
先祖様から預かった自然を汚さずに子孫に伝えるという義務が、われわれにはある。この先祖から子孫へという、世代間の責任を忘れてしまったところに近代主義の大きな落し穴がある。「先祖の恩は子孫に渡せ」というのが、世代間倫理の考え方である。
環境問題というのは、現在の世代が加害者になって、未来の世代が被害者になる犯罪である。被害者は、地球の大気圏が汚染されても、いたるところに核廃棄物を残されても、石油石炭を使わなければ動かない機械を山ほど作って、肝心の地下の石油石炭をカラッポにされても、なに一つ文句はいえない。
地球の生態系が35億かかって貯めてきた太陽エネルギーの塊が、石油・石炭である。
それをわずか数百年の世代が、近代化だとか、工業社会だとか、勝手な理屈をつけて、全部使いきってしまうなんていうエゴイズムは許されない。
3) 地球の生態系は有限であって、生態系の保存が他の目的よりも優先する(地球有限主義)。
自然は無限だという考え方が、頭の中では分かっていても、実際の生活では、空気や水は無限にあるという幻想が通用していた。今では人間の作った工業文化が地球全体の運命を握るほどに大きくなってしまったので、地球が有限だということを、社会制度全体の基礎に置かなくてはならない。
環境倫理学を国際法、国内法の原理にすえることが、人類の生き残りにつながる道である。



7.予見と危険回避

「予見された危険は回避できる」という合理主義的な原理が、人々に信じられてきた。しかし、廃棄物問題というような巨大で因果関係が複雑な難問の前では、人類にとって最大の危険は、「予見された危険が回避できない」という事態に陥ることである。むしろ次のように訂正しなくてはならない「予見された危険は、その予見にもとづく有効な合意形成ができなければ回避できない」。
人類の今まで生み出した知恵のすべてをリストアップしても、合意形成と内部調整能力の強化のノウハウは実に貧しい。

第一、 公平な第三者に決定を委譲する(裁判官制度、公正取引委員会など)
第二、 公正、権利などの基準を定めて適用する(法の支配、法の制定)
第三、 決定の要素を分散させて、選択肢の作成と選択とを別々の集団に委ねる(三権分立、インフォームド・コンセント、言論機関の独立)
第四、 利害関係者の自業自得になるように決定の権限を制限する(地方自治、自己決定、市場経済)
第五、 当人の重大な利害のためには第三者が強制し、干渉する(麻薬の取り締まり、自殺の防止、オートバイ乗用者へのヘルメット着用を義務づけ)

内部調整システムそのものに障害が起こったとき、自動的に自分を取り戻すことができなくてはならない。ユーゴやパレスティナで起こっていることを見ると、ひどくなる前に内部調整能力を回復しないと、永遠に回復できなくなるおそれがあるように思われる。

環境問題の歴史を見ていると、人類全体は予測された通りの危険にどんどんはまりこんでいくように見える。これはCOP3で決めた削減目標が、現在、全く達成されておらず、むしろ悪い方向に進んでいることからも明白である。
環境問題について、予測された危険を回避できると考えるのは甘すぎる。予測された危険はその回避のために世界全体の合意形成が有効にできないかぎり回避できない。肝心なことは、予測された危険を回避するための「合意形成」が地球全体でできるかどうかなのである。
私たちは、地球環境が危険にさらされているということを単に「知る」だけではなくて、その解決のためにどうしたらいいのか、解決策を決定するための合意形成を有効に進めるためにはどうしたらいいのかについて回答を見出さなくてはならない。合理的な予測で何らかの手段を講ずれは何とかなると考えるのは甘すぎるのである。



8.さいごに

熊沢蕃山(1619〜1691)は次の問いを掲げている。
「山川は国の本なり。近年、山荒れ、川浅くなれり。これ国の大荒なり。昔よりかくのごとくなれば、乱世となり、百年も二百年も戦国にて人多く死し、その上、軍兵の扶持米難儀すれば、奢るべき力もなく、材木、薪をとること格別少なく、堂寺を作ることもならざる間に、山々もとのごとく茂り、川々深くなるといへり。乱世をまたず、政にて山茂り川深くなることあらんか。」(熊沢蕃山『大学或問』、日本思想体系、岩波書店、三〇巻、432頁)
戦争したり環境破壊を繰り返した結果、洪水などの自然災害が起きた。そして、結局人間生活が破綻し、最終的にはまた山も川も元どおりになる。そのやり方が良いのであればかまわない、と熊沢は言う。しかし、「乱世をまたず政にて山茂り川深くなることあらんか」とも熊沢は言う。前者のような大きなカタストロフィを経てそれによって自然が回復するのではなくて、人間の叡智で正しい合意にもとづいて自然を回復する方法があるのではないのか、という問いである。すでに江戸時代において一人の日本人が示唆している極めて深い洞察であり、哲学である。このような日本人の大先輩を持つ我々は、先人の示唆と知恵を生かして、世界の合意形成にために役立つ必要があるし、この問題について深く考えていかなくてはならないだろう。



 
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