吉本 哲郎氏
講師紹介
吉本 哲郎氏
1948年熊本県水俣市生まれ。1971年に水俣市役所に入り、水俣市都市計画の再検討や水俣地域環境再生ビジョン作成などの仕事に取り組む。1997年より熊本大学講師。水俣市農林水産課長。地元学ネットワーク主宰。


1. はじめに


私が住んでいる熊本県水俣市は「水俣病」が起きたところとして有名である。
「果たして20世紀中に水俣病の問題解決と水俣の再生はできるのだろうか?出発点にも立てないのでは?」と思っていた。でも今、水俣は生まれ変わった。胸を張って「水俣出身と言えるようになってきた」のである。水俣は再生し生まれ変わった道を歩み始めている。これは大きな変化だと思う。

水俣市は、水俣川の流域に広がる町である。海、山、川がある日本の地形の典型的なところだ。水俣病は、そんなまちに起こった。明治以降、日本が工業をもとに世界の先進国の仲間入りに入ろうとするが、それを早めに経験したところが水俣である。

ここ10年の水俣の動きは非常に劇的である。さまざまな取り組みが注目を集めているが、10年前はそうではなかった。当時、混沌とした社会状況が長く続いていた。「水俣病」が水俣市という行政の力量をはるかに超えた大きな問題であったために、市民も行政も閉塞感を漂わせていた。

現在、水俣病の認定患者は、2265人。このうち1440人以上がすでに亡くなっている。1996年、政府の最終解決策で救済された人が10353人。1万人を超える膨大な犠牲があったということである。また、約40年にわたり放置されたということ。1956年に公式に水俣病が発見され確認されて、それから12年後に認定された。1959年に熊本大学がチッソの廃水が原因であるという説を発表して以降、チッソは殺人罪に問われる。しかし、当時のチッソは、日本のどこも造っていなかったものを造っていた。その廃水を止めれば、おそらく日本の高度経済成長はなかったか、かなり遅れていたという指摘がある。要するに、日本の今の豊かな暮らしは、ある意味で水俣病と無関係ではないということなのである。



2. 水俣が抱える問題


1991年、熊本県はそれまでの政策方針を転換する。水俣病問題の解決に乗り出すのである。それまで水俣病は公害関係部局の管轄であったが、企画関係部局も取り扱うようになったのである。水俣の問題を、公害の問題ではなく地域社会の問題として捉え直そうという方針である。

私は、1991年に水俣市企画課に配属された。私が自分に言い聞かせていたのは、「逃げるな」ということだった。1971年に水俣市役所に入ってから、私自身が水俣が抱えるさまざまな問題から逃げていたからである。

私が考えたのは、「水俣の問題」とは何か、問題の姿・形を明らかにすることだった。この問題は与えられた問題ではない。問題の本質を間違えば、答えも間違うのだから、どんな問題なのかという点について深く考えていた。そこで、私は今まで会ったことのない水俣病の患者さんたちに会いに行った。彼らからいろいろな話を聞いた。私が聞いた被害者の言葉は、「生きているうちに助けてほしい。」、「原因企業は患者が生きているうちは救済し続けなければならない。」という言葉だった。ここで、「救済」とは、「お金」を指す。ここに矛盾が発生する。原因企業は十分なお金を持っていない。したがって、被害者を助ける前に加害者を助けなくてはならないという矛盾が発生していた。加害者と被害者が小さな地域に同居しているということが、いろいろな問題を引き起こしているのだ。

また、胎児性の患者さんたちはすでに40歳を過ぎている。そういう人たちは「私たちも役に立ちたい」と思っていた。彼らには、自らの存在理由の確認が必要なのだ。彼らの気持ちに水俣は応えていなかった。「生きがい」や「働きがい」、「社会参加」、「存在理由」の確認。私はさまざまな解決できない問題があるということを痛感した。
だから、解決できる問題は早く解決しようと思った。解決できない問題には、これからも取り組み続けようと思った。

水俣市民は、胸を張って「水俣出身と言えない」、また「水俣病の患者である」と言えなかった。水俣出身というだけで、お見合いや就職にも差し障りが出る。水俣産という表示では農産物も売れない。これらを差別と言うのは簡単である。しかし、私も水俣の外にいたらそう思うだろう。誰も非難できない。問われていたのは水俣自身だったのだ。
このような状況が40年間続くということが、地域社会にどのような混乱を生むか、考えてみてほしい。例えば、水俣病が東京に起きていたらどうだろうか。

ここで、「胸を張って水俣出身である」と言えるためにはどうしたらよいのか、この地域をどうすれば良いのか、一つの命題が生まれたのである。



3. 水俣再生の取り組み


1991年、私は、水俣病の患者さんの一人田上さんを訪ねた。そのとき田上さんに言われた。「このままだと俺達の犠牲は無駄だ、犬死だ」と。私は、「あなたたちの犠牲は無駄にはしない」と答えた。しかし、言葉にならなかった。どうしたら、彼らの犠牲が無駄にならないか、その解決方法が私には分からなかったからである。
私はその後も、田上さんに言われた犠牲を無駄にしないためにはどうしたらよいのか、どのようにしたら水俣は再生するのか、考え続けた。

水俣の地域再生を車輪に例えると、車輪の真中には動かない心棒がある。その心棒があるから車輪は回る。水俣病は心棒である。水俣病をなかったことにしても地域再生は成就できない。水俣病があったという事実を認めなければ前進できない。水俣病に正面から向き合うことが、水俣という地域再生の車輪を回すことだと私は気づいた。

そこでまず、地区の自治組織「寄ろ会みなまた」をつくった。この「寄ろ会」には地域ごとの自治的な活動を世話する世話人が約10名ずつ、全部で26地区あるので、合計で200数十名の人々を組織化した。最初は行政指導だったが、半年後には、自立した活動に発展した。20代から40代の世話人の方達は、最初の頃は文句ばかり言っていた。

そこで私は役員クラスの人に、「役所に陳情はするな。」と「自分達でできることをやってほしい。」ということをお願いした。その結果、起きたのは、大混乱であった。
では、どうすればいいのか。

「陳情」は「ないものねだり」である。その反対は「あるもの探し」だ。自分達の住んでいる地域の中に「あるもの」を探して、それを磨こう。そのことを理解してもらった結果、豊かな地域資源マップが出来上がった。「ないものねだり」をやめて、「あるもの探し」。これは言い換えれば「愚痴」を「自治」に変えることでもあったのだ。

私は、「あるものを探して、それを磨こう。」を広めた。私は、水俣病についてはたくさんの学者が調べたが、住んでいる私たちはあまり詳しく知らなかったということに気づいていたために、このような発想にたどりついたのである。専門でなくてもいいから、自分達の足元にあるものについて、自分達で調べていこうという取り組みだ。




4. 水、ごみ、食べ物


私は、水俣の再生は環境から始めようと思っていたが、実際には私は環境のことを何もわかっていなかった。環境という言葉を使うのは、役人や学者、ジャーナリストくらいだ。生活者はそんな言葉は使わない。私は自分の母と会話していて、そのことに気がついた。
母は、「梅雨が始まった」とか、「鳥が来た」とか、「今年の桜は早い」とか「遅い」とか、「明日の天気は、どうだろう」とか言う。極めて具体的なことを言っている。環境という抽象的な言葉は実際の生活には登場しないのだ。

チッソは有機水銀という「ごみ」を流した。それが水を汚染した。汚染は魚に生物濃縮され、人間が魚を食べて水俣病が起きた。私は、生活者のもっとも身近にある「ごみ」、「水」、「食べ物」について、世界のどこよりも気をつければ良いのだと気づき、水俣再生のテーマに掲げた。

<1>「水」
我が家では、井戸水をくみ上げ、排水は池に流し、それを田んぼや畑に引いていた。水は循環させて使っていた。したがって、もし仮に合成洗剤などを使ったら、合成洗剤が含まれた米を食べることになる。自分のために、これは大きな問題だ。だから合成洗剤を使うのを極力控えようというところから始めた。

私は私の住んでいる地域を「支流域生態系」と称している。私の地域には約45世帯が暮らしている。支流域の生態が、私の母にとっての地球なのだ。水に関して自分の責任がとれる範囲、それがその人にとっての地球なのではないか。一つのコスモスではないか、と考えている。もう少し拡大してみると、水俣川という流域に自らの責任を持つという意味においては、水俣という地域も一つのコスモスである。こう考えると、それぞれの地域やエリアごとにコスモスはたくさんあるのだ。人の健康は、血の巡りが良いことと言う。だから、地域の健康は、水のめぐりが良いことではないか。

静脈や動脈に相当するのは川の支流、毛細血管にあたるのは森である。それぞれが健全でなければならない。

こうして住んでいる人々と行政とが協働して水を調べ始めた。「寄ろ会」の取り組みでは、水俣病の犠牲になった生き物達への鎮魂もこめたイベントとして成功させたものもある。「寄ろ会」の人達は、今まで会ったことのない患者さんに会いにいき、話を聞き、活動を広げてくれた。これは劇的な動きだった。

水俣病患者とのかかわりを通して私たちは以下の4点について学んだ。
 ■お互いの離を近づけること。
 ■話し合うこと。
 ■対立のエネルギーを創造想像のエネルギーに転換していくこと。
 ■お互いに違うということを認めあうこと。
これは、祈りと再生の「もやい」づくりでもあった。

<2>「ごみ」
「ごみ」への取り組みは、平成4年に始まった。住民が23種に分類し、さらにそれを行政が77種に分別している。「ごみばた会議」などを始めて、地域の「もやい」の場になっている。分別のほかに「ごみ」を減らすことにも努力した。スーパーにお願いしてトレーの使用廃止の協定を結んだ。協力してくれるお店を「エコショップ」に認定するなど、お店と住民とが協力してできるようにと工夫した。これらの活動は「ごみ減量女性連絡会」が行っており、行政は、事務局支援という形で参加している。

<3>「食べ物」
水俣は農業も盛んである。国産紅茶の半分近くを生産しているが、完全無農薬である。
他にも和紙、健康たたみ、野菜、みかん、お茶などの生産農家がある。
取り組みとして、一人一人が水俣だから安心安全であるという食べ物を生産するということを目的に表明する「環境マイスター」という制度をつくった。その結果、彼らが水俣という名前で堂々と売ってくれるようになった。「地区環境協定」もこの活動の中から生まれた。自分達の住んでいる地区の環境は自分達で守る。環境に関する最低限の生活ルールを、住んでいる人達どうしで、明文化して印を押す。役所が介在し主導するものではないのだ。



5. 行政の取り組み


水俣病の教訓の発信の方法は、具体的にまたハードの形でも実現した。市立水俣病資料館、県立環境センター、水俣病情報センターなどの設立や国際会議の開催、また、水俣病患者による語り部なども始めた。市立水俣病資料館には、水俣や水俣病に関するマイナスの資料もたくさん展示している。恥の部分の公表でもあるが、マイナスでもきちっと展示することが、信用につながると考えたからだ。

また、「環境に良い役場をつくろう」ということで、市役所は、1999年にISO14001の認証を取得した。役所という仕事柄、人に指示をする役務以前に、自分でやろうという意識の表明である。役所も、「しくみ」や「ルール」をつくり実行しようということだ。
この考えは市民にも波及し、「我が家のISO」や「旅館のISO」などの形で広がっていった。その結果、修学旅行の受け入れも増えたし、環境産業の展開にもつながった。
2000年2月には経済産業省と環境省による「エコタウン」の認定をうけた。
工場立地についても、家電のリサイクル社など7社が市内で生産活動を行っている。

2001年9月には「水俣市元気村づくり条例」を策定した。
目的は以下の3点だ。

【豊かな村をつくる】
単に貨幣経済だけでない「ゆい」や「もやい」などの協働する経済を広めることが豊かな地域づくりにつながる。そして自給自足する経済を確立する。その実現の方法として、地域通貨を導入した。

【良い風景をつくる】
地域が良い風景をつくろう。農村の原風景を守ろう。良い風景をつくることは、村丸ごと生活博物館=エコミュージアムである。
各地域には、自らの生活文化に誇りを持って説明案内できる生活学芸員がいる。学芸員になる条件は、「私の住んでいる村には何もないと決して言わないこと」。
味噌づくりや木材産業など、優れた生活文化を持つ生活職人がいるという自覚を持つ。
自覚なくして自助努力は生まれず、自助努力なくして発展はない。自分達が当たり前に生活していることは、本当はすごいことなのだという自覚を持つこと。

【交流する】
水俣では「元気村女性会議」が「地域通貨」を発行している。現在83人が加入し、200種類のサービスがある。通貨単位は、100、500、10000ゆい券。
水俣の「地域通貨」の特徴は、稲刈りをしてくれた人が稲刈りした相手ではなくて、他の人に返して良いとしたことである。これで億劫にならない。
この活動も、最初から完璧にやろうとしない。やりながら、改良していこう、常に工夫していこうという精神でおこなっている。



6. 水俣の取り組みの特徴


我々は環境に関して決して意識が高かったわけではない。
「しくみ」をつくって「説明」して「実行」しただけである。
 ■みんなで調べて活動した。
 ■国や県の補助事業や制度に頼りすぎない。
 ■水俣の個性を把握したこと。
 ■過去に学び、変化を適正に受け止め、なじませていこうとしたこと。
 ■自然の持っている循環に学び、自然との共生に取り組んでいること。
 ■LCAライフサイクルアセスメントの手法を取り入れた。
 ■誰が何をどのように、ということを明らかにしたこと。
 ■水、ごみ、食べ物に気をつけていること。
以上のことをやってみて、ふりかえってみたら「地元学」だった。
地域と人が持っている力を引き出していく。人任せにしない。自分でやる。外の人たちにも一緒に参加してもらう。外の意見にも耳をかたむける。でも自分の言葉で語る。
 ■ないものねだりからあるもの探しへ。
 ■愚痴から自治への転換だった。
 ■自ら調べること、調べた人しか詳しくならない。
 ■知の植民地にならない。
 ■ちゃんとものをつくろう。
 ■生活をつくろう。
 ■「調べる」「考える」「作る」の繰り返すことが重要。
 ■生かすために調べる。物知り学には終わらない。
 ■すんでいる人が中心、でもひとりよがりにはならない。
以上、「地元学は地元に学ぶ」ということがよくわかった。

私たちは、自分達が住んでいるところにもっと誇りを持つべきである。都会には都会のよいところがある。田舎には田舎の良いところがある。自分達が住んでいるところの悪口を言うのではなくて、良いところどうしを「交流」すればよいのである。




7. 地元学がめざす方向は、「持続可能な社会」


水俣が考える持続可能な社会の実現にむけて必要なことは、良い環境、(稼ぎではない)良い仕事、良い習慣、住んでいて気持ちが良い、少しのお金でも笑って暮らせる生活の技術を教えてくれる学びの場、自分のことを思ってくれる友達が3人いれば良い、そして良い行政だ。

1991年以降の環境復元事業を続けた結果、現在、水俣湾は世界で一番安全だと言われるほど、きれいになった。水俣では常に海水などの環境調査を続けている。湾の中に小さな島があるが、その島の周りには、22種類のサンゴが生息していることも調査の結果明らかになっている。湾内のサンゴは私に3つのことを教えてくれた。

一つは、水俣の再生はできるのだろうかと思っていたが、海はもう始めていたということ。
二つ目は、人間だけが遅れていた。
三つ目は、やれるだろうかと不安だったことが、やれる!と勇気づけてくれたこと。
水俣は元気になったのだ。

水俣病患者の杉本栄子さんの言葉に「他人は変えられないから自分が変わらんば。」という言葉がある。水俣も「世間を変えるのではなく、誇りを持って、水俣を変えよう。」
その思いで、これからもさまざまな活動を続けていくつもりである。


 
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